華園寺について
About KEONJI

源義経ゆかりの寺院
華園寺について
開 山:養老七年(723年)
開山師:行基菩薩
御本尊:正観世音菩薩
華園寺の歴史
当寺は、山寺三千坊の山寺五山の随一として栄えました。当寺と相前後して創建された五智の国分寺、米山の薬師堂、妙高山の阿弥陀堂と共に近くは地方の教導、遠くは蝦夷の教化に尽くしました。
弘法大師の巡錫(じゅんしゃく)
嵯峨天皇の弘仁年間(810年~823年)、真言宗開祖弘法大師空海は北陸化導の砌、当寺に留錫(りゅうしゃく)し御自ら不動明王を描き、観喜天尊を鋳造し給いました。残念ながら現在は両者とも火災などにより消失しております。
国府移転
越後国司「紀窮高(きみのたか)」の招請により寺基を山寺村より越後国府の近く(現在の上越市中央5丁目)に移します。紀窮高は多くの花木をその廷内に植え、海中より出現した正観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)を信仰しました。里人はこの観音様を「花園観音」と呼びました。当寺の寺名もこれに基因します。
源義家の報賽(ほうさい)
後冷泉天皇の康平六年(1063年)、源義家が当寺に詣で、父頼義と共に仏菩薩の加護により前九年の役(1051年)で安倍負任を討滅し得たことを謝し、直江次郎に命じて花園観音堂を建立し、源氏の祈願所としました。
源義経の受難と献仏
後鳥羽天皇の文治二年(1186年)源義経が兄頼朝と不和になり、奥州藤原秀衡を頼り北陸道を潜航します。その道中に源氏と縁の深い直江津花園観音堂に宿泊をしました。その際、直江津の代官「浦権守(うらごんのかみ)」が義経一行を詮議したことが『義経記』巻七に記されております。
高田移転
後水尾天皇の慶長十九年(1614年)に越後守松平忠輝が福島城から高田城に転居し、城下町の発展と民心安定の為に数多くの寺社仏閣を高田に招きました。当寺も泉蔵院を直江津に残し高田へ移転致しました。
二度の火災
東山天皇の元禄年間(1688年~1703年)に当寺が炎上。本堂、庫裡、山門、鐘楼等を失い、鐘楼以外は再建されました。
明治十一年(1878年)十二月十八日夜半に出火。山門を残した他の全建物を失い、多くの古文書、寺宝を焼きました。先の本堂は榊原氏の家老村上家の住宅を移築したものでした。この火災の後、花園寺を華園寺と改めました。
本堂の建替え
本堂の老朽化が激しく建替え工事を行いました。平成九年に着工、平成十年四月十九日に落慶法要を厳修致しました。
創建1300年
当寺は2023年に創建1300年を迎えました。記念事業として、本堂にエアコンを設置、シダレ桜の植樹、イスを購入させて頂きました。